前日の別れ際にきょ仙さんが「関門トンネルの人道
を通りたい」という希望で、急遽待ち合わせ場所を
人道口入り口のみもすそ川に変更。
ちょっとゆっくりしたいので午前11時
という約束で別れていた。しかし興奮しすぎて
なかなか寝付けず、脳が眠らないまま
結局2時間くらいしか睡眠がとれなくて
でも、人を乗せてこの間のような事故を起こしてのでは
しゃれにならない。なので6時前に起きてメシ
食った後はひたすら横になっていたが、結局
横になっていただけ。
まあそれでもだいぶん疲れはとれたので
10時半に自宅を出発。10分前くらいに
ついたのはいいが、またしても今度は小学生の
団体と鉢合わせ。この時期遠足&修学旅行が
本当に多い....そして団体旅行も意外と
多いのだ。それはまた後ほど....

で、とりあえず整備されたみもすそ川
周辺で英国に戦争売った当時のままの
「実物」長州砲を見学した後、長府へ。
ここはもと私の職場があったところで、
実はうつの原因もここで作られているのだが、
昨秋、思い切って恨み辛みを書きだしたら
すっきりしたので、今はいっても何も
思わない。

ここに来た目的は観光....
ではもちろんなくて、今寂れる一方の
長府商店街が苦肉の策ではじめた
昭和レトロ記念館というのがあるのと
初代タイガーマスクの母校を訪ねるという
企画だったのだが、予想外に盛り上がったのが
ここの忌宮神社にある、相撲資料館。
山口出身の名大関、魁傑こと現.放駒親方が
以前この境内で奉納相撲をしていたのだ。
以下、知らない方のためにウィキから
親方の略歴を転載(一部付け足しあり)。

山口県岩国市に生まれ、小学校3年生まで
岩国市で過ごし、その後は日本大学に進学するまで
下関市で過ごした。下関市立日新中学校時代に
柔道を始め、山口県立下関中央工業高等学校
(ロンブー淳もここの出で、分裂前は
私の父もここに在学している。淳話では
さらに意外な話があるのでまた....)では
柔道部の主将になった。講道館で行なわれた
紅白試合で6人抜きを達成して講道館3段と
銀盃が与えられるなど
の実績を見て、花籠親方(前3・大ノ海)が
スカウトに来るが本人はこれを断わり
日本大学に進学。しかし花籠親方が父を説得
したことを知って入門を決意、大学を1年で
中退して1966年(昭和41年)9月場所
で初土俵を踏んだ。
最初は花錦という四股名だったが、本人は
これを自分には合わないとして嫌っていた。
後に改名することになった際に女将さんに
よって魁傑と命名されると(本人は別の
候補を選んだらしい)、これが昔中国で活躍
した武将の名であることを知って大いに
気に入り以後は相撲に熱が入るようになった。
1971年(昭和46年)9月場所に新入幕、
この場所は7勝8敗と負け越すが幕内に
とどまり、11月場所は8勝7敗、1972年
(昭和47年)1月場所は7勝8敗、どうにか
幕内を維持しているといった程度の凡庸な
成績が続いた。しかし3月場所は絶好調で、
横綱・北の富士とこの場所大関とりとなる
関脇・長谷川らを倒して12勝3敗、長谷川
との優勝決定戦では作戦にはまって負けて
初優勝はお預けとなった。
この頃から輪島(もちろん黄金の左のあの方です^^
ただ同門なので対決はない)、貴ノ花(先代ね)
らと並んで「阿佐ヶ谷トリオ」として注目
され、特に魁傑は女学生に絶大な人気を博した。
1972年5月場所は新三役となる小結に昇進して
11勝4敗(この場所のエピソードとして、9日目に
大関・大麒麟との取組でマゲを引っ張られ
反則勝ちとなる)、7月場所は関脇に昇進して
10勝5敗、大関に向けて大きく飛躍した。
流石に1度は跳ね返されたが、その後は三役に
定着し大関目前となる場所もあった。
1974年(昭和49年)11月場所には小結で
12勝3敗、決定戦で弱いと評判の横綱・北の湖
との優勝決定戦で一方的に突き出して初優勝。
翌1975年(昭和50年)1月場所でも11勝4敗
の好成績を収め、3場所通算で30勝15敗+
優勝1回の好成績により大関に推挙された。
なおその2場所前の1974年9月場所で魁傑は
7勝8敗と負け越している。年6場所制以降、
大関昇進力士で大関昇進前3場所間に負け越し
の場所があるのは他に若羽黒がいる。
新大関となった1975年3月場所は11勝4敗、
翌5月場所は12勝3敗でこの場所は優勝した
北の湖を千秋楽に撃破して2敗とした。
優勝1点差で準優勝となり、綱取り場所となった
7月場所は8勝7敗と不調。肘の故障で得意の
攻めが出せず、続く9月場所、11月場所は
2場所連続で6勝9敗と負け越して大関から
陥落し、1976年(昭和51年)5月には
平幕6枚目まで下がった。
しかし9月場所では前頭4枚目で14勝1敗
を挙げて2度目の優勝(元大関の平幕優勝は
史上初)、11月場所には関脇に復帰して
11勝4敗、1977年1月場所も11勝4敗の
好成績を収め、3場所通算で36勝9敗の好成績
により若三杉とともに大関推挙を受けた。
本来大関推挙を伝える使者が来るのは1度
きりのところ、返り咲きとなる魁傑にも
使者が送られた。2度大関の使者を受けたのは、
現在までただ1人である。
本人はその時「一度大関の名を汚しちゃったので、
(口上で)何と言えばいいのかなあ」と
言っていたらしい。なお現行の「大関は2場所
連続負越で関脇に陥落、直後の場所で10勝
すれば即復帰できる」という制度ができて以降
大関陥落の翌場所に10勝を挙げられず、
のちに大関復帰を果たしたのは魁傑
ただ1人である。
しかしせっかく大関に戻ったのに8勝7敗が
2場所連続続き、またしても肘の故障に悩まされ、
1977年7月場所、9月場所を連続負越して
再び大関から陥落した。
2度目の陥落後も横綱や大関との名勝負を
繰り広げ、ファンは史上初となる3度目の大関昇進
を願ったがついに果たせず、1979年(昭和54年)
1月場所11日目で引退した(4勝7敗、引退当日の
不戦敗は除外)。印象に残る取組として、
引退する前年の1978年(昭和53年)3月場所
7日目、大関旭國との対戦で水入り、再水入り
でも勝負がつかず、10分後取り直しとなり
三度水入りとなる寸前に掬い投げで勝ち、
合計10分19秒にわたる大熱戦の一番がある。
ちなみに魁傑はこの一番の前日の6日目、
大関若三杉とも水入りの相撲を取っており
(この時は敗戦)、旭國も膵臓炎で場所前に
退院したばかりであった。
度重なる負傷により、好不調の波が激しかった。
特に左肘の状態がひどく、このために大関から
2度陥落したがその負傷さえなければ横綱
になっていたという評価は現在でも耳にする。
また現役中の名言は、休場力士が出ると度々
新聞に掲載され、相撲ファンの間では安易に公傷を
認める日本相撲協会に対する投書に使われた
こともある。また腰が高いという欠点もあって、
相撲解説者・玉の海梅吉は、四股名をもじって
「魁傑は未解決だね」と言っていた。
どうやら強弱の差が激しく、強みと弱みが
表裏一体であるといった意味だったらしい。
「休場は負けだ」との名言を残し(「試合放棄だ」
と言ったこともある)、不調で黒星が続いても
決して休まず戦う姿はファンの人気を集め、
また誠実な土俵態度とあいまって力士の手本と
評され名大関と呼ばれた。現役時代の後援会長は
同郷の佐藤栄作が、死去するまで務めた。
引退後は年寄・17代放駒を襲名し、1981年
(昭和56年)に花籠部屋から分家独立した
(この時移籍した内弟子の中に後の横綱となる
大ノ国がいた...ということで実は
芝田山親方の展示品もあったのだ。見ていた
ときは「なんで?」と思っていたけど....)。
その後、弟弟子で12代花籠を継承した輪島
が借金の担保に年寄名跡をあてがうという事件
が発覚して廃業(全日本プロレス入り後、失踪。
引退)すると、一門の長老であった
二子山親方(横綱・初代若乃花)に指名されて
花籠部屋の弟子全員を引き取ることになり、
放駒部屋は小部屋から一気に大部屋へと躍進した。
現役時代に見せた誠実さは年寄になってからも
評価され、引退後1年で審判委員に抜擢される。
その後は協会の常勤役員(役員待遇)として
事業部副部長、広報部副部長などの要職を十数年
に渡り務め、2006年1月場所後に理事へ昇進し、
審判部長の要職に就いた。しかし2006年7月場所で
優勝次点ながらも4場所連続で13勝以上
した大関・白鵬の横綱昇進と、3場所通算で
34勝した雅山の大関再昇進について見送る
旨の発言をし、好角家から大きな反発を招いた。
白鵬の直前3場所の成績(13勝の優勝同点+
14勝の優勝+13勝の優勝1点差)は放駒親方の
弟子・大乃国の横綱昇進時の成績(15戦全勝優勝
+12勝の優勝1点差+13勝の優勝1点差)
を上回り、雅山の直前3場所の成績(34勝11敗)は
魁傑自らの大関昇進時の成績(優勝1回を含む30勝
15敗)を上回るものであり、その整合性のなさが
指摘された。
しかし横綱昇進に関しては、形式上は番付編成
会議及び臨時理事会で討議されるものの
横綱審議委員会が事実上の昇進決定を下す
機関となり、審議委員会は基本的に近年は
準ずる成績というものを採用していない。
また大関昇進に関しては、その時期における
大関の人数、昇進に向けての機運などにも
左右されているが、雅山の時は既に大関が
5人いる上優勝がないという状況であった。
また部長昇格直後の2006年5月場所で
幕下付出15枚目格で全勝優勝した
下田圭将の十両昇進を見送り同力士が
その後低迷したためこれに対する
批判が未だにある。さらに2007年3月場所
では西幕下2枚目で5勝2敗の境澤、
同5月場所、7月場所では市原の十両昇進
を見送った。これらの編成は日大中退
(自身は柔道部出身だが、中退しての角界
入りが必ずしも本意でなかったことや、
日大同期である輪島に対して好感が
持てなかったなど?)であるが故の日大
相撲部出身者に対する嫌がらせであると
する声もある。2007年9月場所の番付では
西幕下筆頭の市原が勝ち越しているのにも
関わらず大方の予想を覆し35年ぶりの十両
陥落者なしという編成を行い話題を呼んだが
従来の慣行では十両ー幕下は上がり優先であり
幕下上位に勝ち越し者がいる場合には
大敗者が十両下位にいない場合でも陥落させるべき
であるという意見や帳尻合わせの容認に
つながりかねないという懸念を表明
する意見もあった。
そのような意見をよそに2008年11月場所では
西幕下筆頭で5勝2敗の福岡の十両昇進を見送り、
下がり優先の傾向はより顕著になった。
ということでなんとあの輪島との確執がこんな
形であったとは....意外なところに縁がある
モノである。実はここの神社には先だってお払いに
来たばかりなのだが、この建物自体は
久しぶり。前は展示品も少なかったのだが、
いつの間にか展示が増えていて、(大乃国関係
で水増しされていたけど^^)
しかもここが重要なのだが、魁傑時代の
二度の優勝全取り組みが見られるというビデオサービス
まであったので早速見ると....
これがおもしろいのだ。
当時だって巨漢力士として高見山がいたし、
北の湖だって貴乃花だって弱かったワケじゃない。
それで優勝。
子供の頃にうっすら記憶があるのだけど、
前頭で優勝とかって、って改めて驚いた。
なにより最初に映されたのが福岡国際センター
ではなく、九電記念体育館というのが
たまらない!!しかも相撲内容が半端無く
すばらしい。まあいいところ取りしているのは
確かなのだけど、それでも座布団が舞っていたのは
感激。確かに女性ファンの歓喜の姿も
うつっていたし、枡席で喫煙する男性も。
そう昔は分煙とかそういう発想自体がなく
喫煙はむしろ大人のたしなみとして強制された
ものだった。特に私の住んでいた地域(松田優作さんの
生涯が語られると決まってスラム扱いされる^^)
飲酒.喫煙は中学から黙認という世界だったので
変われば世の中変わるものだなあと。
で、肝心の入場料は...
お気持ちでいいという事なので何も入れないで
すっかり得した気分で佐山さんの母校を訪ねた後
レトロ街へ。
久しぶりに行ったらなんと足湯までできていて、
温泉なんか出る場所じゃないのに....まあ
レトロといったってたいした物があるわけでは
ないんだが^^
まあそんなこんなで実はここら辺で
「食える」ラーメン屋がないので、一気に下関を
すっ飛ばして、ゼロワン.藤田ミノルの出身地
山陽小野田市へ。通りがけには私がよく行く
温泉「みちしお」や、大日本が最後に山口大会
を行って近所で大会前に伊東竜二夫妻が買い物していた
スーパー(現在は入居店舗も変わっている)
もあったりして^^
で、ここに「一久」という地元では
ちょっとしたラーメン屋があるのだ。


スーパーなんかでは大概家庭で作る事の出来る
袋づめ生ラーメンがスープ付きで売られている。
まあ長浜に比べると、量も少ないけど、夕方までに
下関に戻るという予定だったのと、この後
マイミクさんで今回は不参加のメディコさんの
お住まいがある川棚で、これまた名物の瓦そば
を食べるという事になっていたのでちょうどよかった。
で、まだ時間もあるので、小野田市の体育館
(藤田も大日時代凱旋しているし、なにより
全女が会場費踏み倒して訴えれた事があったけど、
実は訴えたのがここ。)に行ったり、変な看板を
撮った後、新幹線駅のある厚狭の寝太郎町を経由して
下関の吉田へ。吉田といっても光雄とはなんの関係もない^^
ここには東行庵という、高杉晋作(号が東行)
の墓があるのだ。ただし、下関市と高杉家がもめて
遺品はほとんど萩にうつってしまったのが、墓は
故人の遺言があるため、そのままになっている(ちなみに
高杉晋作関係では市内各地の民家の軒先とかに平気で
碑がたっていたりしてけっこうそれだけめぐっても
面白いのである。歴女の皆さん、なんでしたらご案内
しますよ^^私は歴史は詳しくないけど小さい頃から
フツーの光景としてみているので、案内はできます^^)
ここでは2月には梅、春には桜、5月
にはツツジ、そして6月は
最大の名物である菖蒲祭りが開催されていて、
それ目当ての老人観光客で、駐車場は大混雑。
しかし、いいときに来たモノで菖蒲は花盛り。
ご老人達も喜んで写真を撮っていたが、私らも
嬉々として撮影していた^^

で、今はいい道が出来ているので
菊川から川棚まで直行...するはずが
道路が変わりすぎていて、一部迷ったあげく、
それでも余裕で、元祖瓦そばの「たかせ」
についたはいいが....閉まっているしっ!!
新館の方に行ってもやっていなくて
別館のみ営業中との事で引き返して
別館にはいると奥座敷に通されて瓦そばを
いただく事に。
まあ元祖は確かにこの店なのだが、ぶっちゃけていうと
一人前1050円であの量では高い。観光客相手に
ふっかけているなあ、という感じは否めない。

しかし、やはりふっかけるだけあって
うまい事はうまいのだ。
で、食事を済ませて、川棚から旧下関市側へ
山陰道をひた走る事に。
ただ川棚で一つ気になったまま
通り過ぎてしまったのだが「瓦シュー」
というものがあって、結局見られずじまいになって
しまった。あれだけがなんかひっかかるんだなあ^^
まあドライブ中はプロレスの前にラジオ好き
という共通項があったのでいろんなラジオ話にも
花が咲いた。だいたいきょ仙さんとの「出会い」という
のは旧.汐留駅跡の汐留ピットで二回目が日本武道館
のスクリーンで、実際に対面する前にあっている
のだ^^
で、せっかくなので新下関経由で、行こうと途中で
道を変えて、新球場を見学した後、新下関経由で
下関の宿まできょ仙さんを送り届けた。
まあ知らないうちに知らない宿が建っているモノで
私も来たのははじめてというホテル。しかし風景は
いいだろうと思っていたら、やはり巌流島が一望
できたらしい。
で、ここまて人様を乗せていた緊張感で
何事もなく安全運転してきたのであるが、
あろうことか気がゆるんで、ハンドルを切り
損ねて、分離帯に設置してあるポールに激突
しかかった。幸いすんでの所で回避できたが
まさか自分が「二度目」をやらかすとは....
これはいかんということで急遽、いつも通っている
「おうじ整骨院」さんに急行。
やはり首と腰にかなりのダメージを受けていて
集中力も鈍っていたのだ。
幸い十分間に合ったので治療していただいて
まあ時間があれば酸素カプセルにも入りたかった
んだけど、残念ながらそこまでは空いていな
かったのではあるが皆さん丁寧にしてくださるし、
建物も綺麗で、いい方ばかりなのでご厚意に甘えて
私のチラシと名刺まで置いてきてしまった^^
まあこれで疲れもとれたし...と
思ってほっとして帰宅したら
大叔父の訃報....ということでさらに話はここから
いきなり「2011ワンデイピクニックへの道」へと
続いていくのである....。
(いったん、了。でも続く^^)
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